桜

小原四季桜まつり
2023年

開催は終了しました

四季桜にまつわるエピソード

寛政から文化・文政年間(1789年~1829年)にかけて、北(喜多)村に藤本玄碩(ふじもとげんせき)という漢方医者がいました。玄碩は、紙漉きを業としていた佐野右衛門(さのうえもん)の次男として生まれましたが、小さいころから学問を好み、志を立てて名古屋で医術を学び、郷里へ帰って生家の東の小高い山の中腹に家を建てて開業しました。名古屋仕込みの技術と人柄のよさで、しだいに評判が高くなり、小原谷はもちろん、美濃や尾張からも患者が来るほどでした。

ある秋のことです。尾張から来た患者と、美濃から来た患者が話をしていました。

「俺がの壇那寺(だんなでら)に、珍しい桜の木があってなも。」

「ほー、それは桜かなーし。」

「それがなも、一年に四へんも花をつけるんだぎゃ。いまが秋の花の盛りなんだわ。」

もともと好奇心の強かった玄碩は、早速その患者に詳しい話を聞き、日を改めてそのお寺さんを訪ねました。

なるほど、紅葉に包まれたお寺の境内に、見事に花を咲かせた桜の木がありました。あまりの美しさにしばし見とれていた玄碩はやがて方丈に入り、和尚(おしょう)さんに対面し、

「生まれて初めて、このような珍しい桜を見せてもらいました。ありがとうございました。」

とお礼を言いました。

かねて村人から玄碩の人徳を聞いていた和尚さんは、しばらく玄碩の顔を見ていましたが、やがて、

「あんたなら大丈夫だ。どうかこの桜を三河の山に植えて人びとの心を和ませてくだされ。」

と、大切に育てていた根上がりの若木を譲ってくれたのでした。

大喜びで持ち帰って玄碩は、家からいちばんよく見える前山の中腹に植え、大切に手入れをつづけました。そのかいあってか、桜は順調に育ち、その珍しさはだんだん近所の評判になっていきました。そして、その花のつけようから、いつのころから“四季桜”(しきざくら)と呼ばれるようになりました。

文政十三年、玄碩は惜しまれながらこの世を去りましたが、村人たちは、玄碩が生前に建てた「南無阿弥陀仏」の大きな碑を見るたびに、その徳を偲びました。そしてそのころには、玄碩の家の周辺にも数本の子供桜が育って、美しい花を咲かせていました。

その後しばらく、天保の飢饉や黒船騒動、明治維新と世の中が騒がしくなり、人びとの心から花の鑑賞を楽しむゆとりを奪ってしまいました。明治になって世の中が治まり、三十四年に福原村立福原小学校が大字雑敷(ざっしき)に建設されるとき、当時の村長であった佐々木彦衛(ささきひこえい)さんが、学校のシンボルにしたいからと懇願して、玄碩の家の前山の大桜を運動場に移しました。

桜はその樹齢、花の素晴らしさ、加えて樹形が見事だったために村中の評判となり、村人たちに愛されました。その子桜から分かれた孫桜は、現在の小原の四季桜の中心になっていて、壇那寺の和尚さんが言ったように、多くの人びとの心を和ませてくれています。